『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2)
2024-01-09


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さてまた、「庄屋を務め給えば、村の人別帳あるべければ、その名前ども見せたまえ」と望みければすなわち帳面を取り出し見す。 庄屋、五人組をはじめ、一郷中みな、金慶山、白孝基などいえる名あり。 いと珍しく繰り返し見る。 その中に解しがたき名も多し。 土民のことなれば文盲なるゆえなるべし。 とかくして、黄昏にも及びければ、案内の者来たりて、客屋というところに導き行く。客屋の主は朴養真という。 その子を朴養安という。 妻をロレンという、文字はなしとなり。 まことに土民にて人品質朴なり。 その余、五人組などと言いて伸守吟という者、挨拶のために旅宿に来たる。 しばらく留めて物語りす。 珍しきことども数々あり。

 やはり日本ですねえ。 自分たちの村の住民の人別帳があります。 中世の朝鮮の村は血縁共同体の集まりであって、日本のような地縁共同体でなかったですから、村の構成員を示す人別帳のようなものはありませんでした。 あるのは国家が人民を把握するための戸籍大帳か、宗族の血縁関係を示す族譜でした。 苗代川は朝鮮人の村とされましたが、その村のあり方は地縁共同体であって、日本と同じになっていたようです。

 女性の名前が一人でてきて、「ロレン」。 朝鮮女性の名前で「レン」といえば、直ぐに思い浮ぶのが「蓮」。 だから「ロレン」は「呂蓮」でしょうか。 しかし中世の朝鮮では、女性は基本的に個々人につけられる名前がありません。(女性に名前があるのは賤民階級―下記参照) おそらくロレンは日本で生まれたから人別帳に載った名前で、漢字を使わずにカタカナ名だったようです。    

翌日、案内の者来たりて、高麗焼の細工場、並びに竈を見物す。 仰山なることどもなり。 この村の半分はみな焼物師なり。 朝鮮より伝え来たりし法をもって焼くにゆえに、白焼などは実に高麗渡りのごとくにて、まことに見事なり。 日本にて焼いたるものとは見えず。 それゆえに、上品の焼物は大守よりの御用のものばかりにて、売買を厳しく禁ぜられる。 これによりて平人の手に入ることなく、他国にても持て囃せることを見ず。 余も案内者に頼みて求めけれど、白焼は得ることはあたわず。 ようよう黒焼の中の上品の小猪口を得たり。 これも余が遠国の者ゆえに、内密にて得させたり。 携え帰りて、今に秘蔵す。 その他は下品にて質厚く、色も薄黒く、烈火にかけても破ることなし。 ゆえに下品は土瓶などに多く造りだす。 これはおびただしく売買して、薩(薩摩)、隅(大隅)、日(日向)の三州はおおかた民間にもこの土瓶を用ゆ。 なお、大阪までもうり来たりて、薩摩焼と称して重宝とす。 薩摩にてはノシコロ焼のチョカという。 チョカとは茶家の心にて土瓶のことなり。 薩摩の方言なり。 土瓶と言いては知る者なし。 さて、それより一郷中、所々見物し終わりて、帰路に赴く。

 薩摩焼には白薩摩と黒薩摩の二種類があり、ここでは「白焼」「黒焼」としています。 白焼はお殿様に納入し、黒焼は庶民の日常雑器として供給していると書いているのは正確です。 今でも薩摩焼の説明に使えますね。

すべてこのノシロコの風俗、みな総髪にて、額の上に集めて結いたり。 京の女の櫛巻きなどという髪のごとし。 礼儀の時は頭にまんきんというものを戴く。 馬の尾にて網のごとく組みて、底なく、耳の上に錫あるいは真鍮にて木の葉の形の金物を左右に付け、巾は額より後ろの方に回し当たるものなり。 高き巾あり、低き巾あり。 高きは高網巾という、上官なり。 衣服は茶色の絹にて袖広く、法衣のごとく、上裾分かれたり。 まず裳を着て、また衣を着す。 上には桃色の細き丸き帯を結ぶ。 下着は日本流の服なり。 身幅袖幅ともに広く、帯は前結びなり。 女の髪は礼儀の時は髻を三つに分けて、平生は櫛巻きのごとくなり。 かくのごとくの風俗にて、馬を追い耕すを見るに、実にこの身、唐土にある心地して、さらに日本の地とは思わず。 


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