『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1)
2024-01-02


 1592年に始まった秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役―壬辰丁酉倭乱)の際に、島津軍によって連れてこられた陶工たちが鹿児島の苗代川等の地に定着し、ここで窯を開き陶磁器を焼きます。 「薩摩焼」と呼ばれるもので、その中の沈壽官窯はとくに有名です。 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』は、この朝鮮人陶工の悲哀を描いたものです。

 この小説について、司馬遼太郎が窯元の沈壽官を直接取材し、沈が「朝鮮の故郷を忘れられない」と語ったことに感激して『故郷忘じがたく候』という小説を書いたと説明する人がいました。  実は薩摩焼の陶工が「故郷を忘れられない」と語ったのは、18世紀末の江戸時代の旅行記に出てくる話です。 司馬はこれを読んで、小説の題名を『故郷忘じがたく候』にしたものと思われます。 あるいは14代沈壽官がそれを読んで司馬に語ったのかも知れません。 それはともかくとして、その旅行記を紹介します。 

 旅行記は京都の橘南谿という医師が書いた『東西遊記』(1795年刊行)で、現在では平凡社東洋文庫『東西遊記2』(1974年3月)の170〜173頁に、薩摩焼陶工の話が出てきます。 せっかくなので、当該部分を引用・紹介します。 いわゆる「候文」で読みづらいでしょうが、高校時代の古典授業を思い出しながら読めば、理解できると思います。

76 高麗の子孫(鹿児島)

薩州鹿児島城下より七里西の方、ノシロコという所は、一郷みな高麗人なり。 むかし、太閤秀吉、朝鮮国ご征伐の時、この国の先君、かの国の一郷の男女老若を虜となして帰り給い、薩州にてかの朝鮮の者どもに一郷の土地を賜い、永くこの国に住せしめ給う。 今に至り、その子孫、打ち続き、朝鮮の風俗のままにして、衣服、言語もみな朝鮮人にて、日を追うて繁茂し、数百家となれり。 初め捕われ来たりし姓氏17氏、いわゆる、伸、李、朴、卞、林、鄭、車、姜、陳、崔、盧、沈、金、白、丁、何、朱なり。

 ノシロコは前後の文脈から「苗代川」と推測できます。 薩摩での言い方なのでしょうか。

‥‥賓客なれば、ノシロコの庄屋、礼儀を正して出迎えたり。すなわち、庄屋の家に入り、酒販等のもてなしを受けて、初めて対面して名を問えば、シンポウチュンと答う。 その文字を問えば、伸r屯と書くという。 「さても珍しきお名前なり。 ことに伸というは唐土にも承り及ばず。 朝鮮元来の姓にや。」と言えば、「そのことにて候。 これは日本に渡りて後に改め候なり。 元来は申と申し候を、先祖の者、この国に渡り上りし頃、太守へお目見えの時、披露の役人衆、猿(さる)とそれがしを披露申されぬ。 その場にて争うべきにあらざれば、そのままに拝礼して終わりぬ。 これは申という字、十二支の猿と読む字なれば、帳面の名をかく読み誤りて披露あられしなり。 その明年の年始拝礼の時も、披露の役人また猿なにがしと披露あり。 後にて、それがしが姓は申(しん)と読み申すなりと断り置きしかど、その役人替わればまた明年も猿と披露あり。 とかく人の声も悪しければ、申(さる)と読まざるように、人偏を付けて伸の字に改めぬるなり」と答う。 その由来も珍しき、手を打ちて笑う。

 苗代川村の庄屋さんは「朴平意」と思っていたのですが、ここでは「伸r屯」となっています。 庄屋さんも時代によって替わっていったのですかねえ。 なお「伸r屯」は現在の韓国語では「〓〓〓(シンモドゥン)」となりますが、橘南谿は「シンポウチュン」と聞こえたようです。 中世朝鮮語の発音かも知れないし、ひょっとして鹿児島弁での読み方かも知れないし、何とも言えません。

 本来は「申」なのに、日本では「サル」と読まれるので人偏をつけて「伸」としたというのは面白いエピソードですねえ。 だからなのでしょうか、文禄慶長の役の際に連行された朝鮮人陶工の話の時に、時々出てきます。 (姜在彦『ソウル』文芸春秋 1992年7月 31〜32頁など) 


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