朝鮮南部は1945年の解放(光復)後アメリカ軍政下になりますが、労働党などによる反乱・闘争が相次ぎ、更には大韓民国建国後の1950年に北朝鮮による戦争勃発などで大混乱に陥りました。 この時期に多数の韓国人が日本に密入国しました。 今から見れば「難民」になるかも知れませんが、当時は「密航」と呼ばれて取締り対象でした。
来日した密航者の多くは日本に親戚などの縁故ある人がいたり、共産党・民戦などの組織支援を受けたりするなどして、日本で働く場所を確保し生活することが出来ました。 それでも取締り対象ですから、いつ何時警察や入管に摘発されるか分からない身分でした。
そんな人たちも多くはその後、警察や入管に出頭・自首して取り調べと裁判を受けて、法務大臣から貰う「特別在留」許可によって合法的身分を獲得することになります。 このことは拙稿で論じたことがあります。 [URL]
在日韓国・朝鮮人のうちで、このような経過を経た人はかなり多いです。 在日一世の体験談を集めた『在日一世の記憶』(平凡社 2008年10月)によれば、密航者の割合は52人中11人です。 自分が密航者だったと明らかにしていますので、今は合法的身分になっていると思われます。 [URL]
密航者が日本で生活するに当たりどのような気持ちでいたのかについては、想像は出来ますが実際に当人から聞くことは難しいものです。 おそらく他人には喋りたくないし、忘れてしまいたい過去なのであろうと思います。 そういう中、著作家の尹学準さんが自らの体験を書いた「わが密航記」(『朝鮮研究190』所収 1979年6月)は貴重な記録です。その一部を紹介します。
私は今から三年ほど前の七月のある日、品川にある東京入国管理事務所に自首した。二十数年前、不法に入国をしたことを告げたのである。 自首に踏み切った最大の理由は子どもだった。 ある日、小学校三年になったばかりの長女が私に「アッパ、アッパは尹でしょう? なのにどうして私たちは李なの?」と真剣になって問いただしてきた。私は一瞬言葉につまった。 小学生相手に父親のややこしい半生を説明してわからせることは至難のわざに思えた。 もし、私が自首して尹学準こそがわが本名なりと人前に言えるようになれば、こうした子供の疑念を晴らすことができるはずだ。 こう思って私は少しずつ準備を進めた。(4頁)
自首してからは、二日ほどかかって調書を取られた。 なにしろ二十三、四年も前のことで失念したことも多く、また、なかには私の知らなかった事実も教えられたりした。 取調べが一段落してから、入管の三階にある留置場にも入れられた。あらかじめ手はずが説明され、三〇万円の金を用意するように言われた。 そして家内が入管から払込み用紙をもらい、新橋にある日本銀行支店に保釈金を積んで来る間の小一時間、ズボンのバンドやネクタイをほどかれ、形通りの身体検査を受け、持ち物を領置して鉄柵のなかにほうり込まれたのである。 すべからく貴重な体験だった。 法務大臣による特別在留の許可が出て、「外国人登録法違反」で一金、三万円の罰金を払い一件落着するまでは、まだしばらく時間がかかるのだが、ともあれ、もうなにはばかることはなかった。 <おれは密航者だったんだぞう!>と町中を大声で叫び回りぐらいだった。 かつて警官の姿を遠くから見ただけでもつい逃げだしたくなったり、電車の中で制服姿の車掌に出合ってもどきりとしたのを思うと、まるで夢のようだった。(4〜5頁)
(密航して)日本に着いてみるとまず外人登録証の問題にぶつかった。 釜山で得た知識でも登録証の入手は困難で、それがなくては捕まえられる。 そうなれば即座に送還されるということだ。 しかしなんとしても韓国を脱出しなければならないというせっぱつまった事情が先立って、この問題には神経を使う余裕がなかった。(10頁)
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