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Q 崔賢先生との出会いはいつだったのか
朝鮮近代史で「崔賢」といえば、1930年代に金日成とともに抗日パルチザン闘争を担い、解放後は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人民武力部長(国防大臣)などを歴任した人物が有名です。 先月に北朝鮮で進水式を挙げた新型駆逐艦の艦名が、この歴史的有名人の「崔賢」でした。
ところで金時鐘さんによれば、解放後に同姓同名の共産主義者「崔賢先生」に出会い、この先生から共産主義に感化されたといいます。 北朝鮮の「崔賢」とは別人ですね。 彼は次のように回想します。
学生仲間の間で「崔先生、崔先生」と慕われていた、多分筆名だったろうと思いますけど、「崔賢」という30絡みの活動家がおられました。 ‥‥ 私が初めてこの崔先生にお目にかかれたのは、無知だった己れにもようやく民族の憤りが芽生え始めたころの春でしたから、終戦の翌年ということになります。 (「私の出会った人々」1980年1月『「在日」のはざまで』平凡社 2001年3月 53頁)
ここでは、崔先生と出会ったのは「終戦の翌年」ですから1946年の春です。 出会ってどのような活動をしたかというと、共産主義の「農村工作」です。 金時鐘さんは農民の厳しい生活状況を目の当たりにして、ショックを受けました。
光州にある無等山の麓の小さな集落を、この先生―というよりは指導者というべきですが―に連れられて初めて農村工作に出かけたとき ‥‥ 全羅南道の道庁所在地である光州市内からそうも離れていないところの農村でしたのに、初めて訪れた農家のかさぶたのひっついているような藁屋根をくぐってみて、本当にたまげたのです。 部屋というのがなくて、異臭のたちこめたうす暗い土間には藁だけが敷いてあり、おなかの突き出た子ども達が、蠅にたかられて、何人もおって、半開きの釜が粗末なかまどにはまったままだったのです。 このような状態で小作農の農民たちが生きていたことを、目と鼻の先の同じ光州市内で何年も勉強していながら知らずにいたこと自体、大変な衝撃でありました。 (同上 54〜55頁)
ここまで詳しく書かれていたら、金時鐘さんが1946年に崔賢先生と出会って農村活動したことは事実として間違いないと思うでしょう。 ところが金さんは、後の著書『朝鮮と日本に生きる』では崔先生との出会いを次のように語っておられます。
(1945年)9月末にはひとまず光州の学校に戻りました。‥‥ 私の自覚を深く目覚めさせた崔賢先生とは‥‥解放までの4年近くを思想犯として服役していた30がらみの痩せたお方でしたが、「自分の在所探し(チェコジャンチャッキ)運動」という、農村の啓蒙活動に力を注いでいる指導者でした。 おかげでようやく自分を取り戻せそうな気がしていた‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 87〜88頁)
金時鐘さんは日本の敗戦=朝鮮の解放時(1945年8月)に故郷の済州島に帰っていたのですが、その年の9月末に光州の師範学校に戻り、その際に崔賢先生に出会い、農村活動を始めました。 そして父母と一緒に祖父のいる北朝鮮に行くために一旦その農村を離れて帰省した後、北朝鮮に行けなくなったために10月頃にまた農村に戻ってきます。
すぐに帰ってくるようにとの急な手紙が父から届きました。 うしろ髪を引かれる思いで家に帰ってみますと、本籍地の元山に今すぐ引き揚げるというのです。‥‥あたふたと家を整理して連絡船に乗り、大田で乗りかえて38度線近くの東豆川にたどりつきましたが、真夜中、その川を渡る段になって軍政庁に再雇用されている警務隊に捕まってしまいました。‥‥翌々日、母と私は釈放されて丸裸で済州島に戻りました (同上 88頁)
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