金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生
2025-05-24


(10月頃)私はその足で光州に行き、12月末まで崔賢先生が開いている学習所に入りびたって、「チェコジャンチャッキ運動」の手伝いをしながら、知らねばならないことの多くを知らされました。 なんとその間に「登校拒否者」「赤色同調者」として私は学校から除籍されてしまっていました。(同上 88〜89頁)

 10月頃に再び光州に戻り、そのまま崔賢先生の学習所に行って入り浸り、その年の12月末までの約三ヶ月の間、一緒に活動したことになります。

崔賢先生の学習所から私が済州島の親許のところに帰ってきたのは、1945年も暮れかかっていた12月の終わりごろでした。 (同上 95頁)

(崔賢先生の)「トゥンプル学習所」との直接的な関わりは三月足らずの短いものでした (同上 104頁)

崔賢先生の生き方、思うことを誠実に実践する行動力に痛く感銘を覚えていた私は、解放の年の12月末、先生の薦めもあって済州の親許に帰ってきます (同上 118頁)

 ただし金さんは、この三ヶ月の間にまた一度済州島の家に帰ったことがあるようです。

その年(1945年)の晩秋、元山の祖父の死の知らせが届きますが、父は牛のうめき声のような声で慟哭しました。 (金時鐘C「語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 2019年7月23日付『朝日新聞』) 

 [URL]

 晩秋ですから11月頃でしょうか。 金さんは祖父の訃報を聞いて慟哭する父を見ていますから、その時は済州島の家にいました。 

 まとめますと、金時鐘さんが崔賢先生と出会って農村活動をしたのは、金さんの著作では「1946年」と「1945年」の二つがあります。 どちらも詳しい状況が書かれていてリアリティがあるように感じられますが、時期が食い違っています。 ということは、どちらかに間違いがあるということになります。

 崔賢先生との出会いと活動は金時鐘さんが共産主義者となる契機となったものですから、その時期は彼の思想を研究する上で重要なものです。 その時期が食い違って混乱しているとなると、一部の小さな間違いに止まらず、全体の信用性に疑問を抱くことになります。

 崔賢先生の活動について、金時鐘さんの回想しか資料がないので、どこまでが真実なのか分かりません。 また「崔賢」という名前は『「在日」のはざまで』平凡社53頁によれば「多分筆名」とありますが、いわゆる細胞ネーム(かつて共産主義者が活動する際に使った通名)なのか、ひょっとして冒頭に書いたような元抗日パルチザン有名人の名前を騙ったのか、などの疑問もあります。

 ただ解放後の全羅南道・慶尚南道の智異山一帯では南労党の活動が活発だったので、共産主義的な農村活動があったのは事実と思われます。 金時鐘さんの記述を検証するために、この時期の南労党の資料が欲しいところです。     (続く)


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