表3は、この頃の在日朝鮮人の生活が植民地期以上に悪化していることを物語っている。Cには日雇いから失業者まで雑多な範疇が含まれているが、これらはみな事実上、失業者である。‥‥1947年に朝連が独自に実施した調査では、「稼働人口」の30万3512人に対して「失業人口」は20万4986人(67.5%)となっている。 東京の代表的な朝鮮人コミュニティとして知られる枝川町では、50年当時、14歳から59歳までの「生産年齢層」(538人)のうち、まともに仕事に就いているもの(完全就業者)がわずか47人という惨憺たる状況であった。(117頁)
「表3」は下記にあります。 戦後直後の在日朝鮮人は失業者が多くて大変な苦労をしていたことを立証しようとするものです。 ところがこの本の別の個所では、当時の在日朝鮮人の次のような姿を書いています。
「解放の喜びと独立国民という自尊心を誤解し、さまざまな不祥事」(1946年10月に開催された朝連〈在日朝鮮人連盟〉第三回全国大会報告)を起こす朝鮮人も少なくなかった。 「多少知識や財産のある非良心的な層は、なんら事業もせずに、毎日、自動車と宴会に明け暮れ一攫千金を夢見ている。彼らは、何かの会とか同盟とかいう二・三人の団体をつくっては酒とタバコなどの物資を獲得し、私腹を肥やすなど口に出すのも憚られるような悪行を重ねている」と朝連自身が総括せざるをえなかった。(89〜90頁)
占領初期には旧植民地出身者に対する日本政府の検察・裁判権は現地占領軍によって否認され、在日朝鮮人側も敗戦国日本の法律に従う必要はないとの思いこみがあった。 勢いその振舞いは無軌道なものとなった。 取り締まりに及び腰の警察当局は、テキヤや侠客とむすんで闇市での朝鮮人や中国人の台頭を押さえようとした。 朝鮮人の側もこれに組織的に対抗するために朝連や共産党に頼ったのである。(90頁)
ここに出てくる「なんら事業もせずに、毎日、自動車と宴会に明け暮れ一攫千金を夢見ている」「何かの会とか同盟とかいう二・三人の団体をつくっては酒とタバコなどの物資を獲得し、私腹を肥やすなど口に出すのも憚られるような悪行を重ねている」人たちは、上記の「表3」(下記)ではどこに分類されるのでしょうか。 やはり「失業人口」に入るものと思われます。
終戦直後の在日朝鮮人は失業者となって生活に困って惨めであったというイメージがあるようです。 確かにそういう人もいましたが、一方では自分の民族性を示して大儲けしたり乱暴を働いたりした人も多くいた、ということです。
(表3) 戦前と戦後の職業分布比較図(単位%) (117頁)
職業別 1940年(A) 1952年(B) B−A
@ 鉱、工、土建業 66.5 18.9 −47.6
A 農、水、運、自由業 15.1 10.2 −4.9
B 商業 14.9 18.5 3.5
C 日雇、その他の職業、家事使用人、失業者 3.5 52.4 48.9
【拙稿参照】
張赫宙「在日朝鮮人批判」(1) [URL]
張赫宙「在日朝鮮人批判」(2) [URL]
権逸の『回顧録』 [URL]
終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’ [URL]
在日朝鮮人の「無職者」数 [URL]
闇市における「第三国人」神話 [URL]
【これまでの拙稿】
水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 [URL]
水野・文『在日朝鮮人』(2)―渡航証明と強制連行
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