「三韓」の用例(10)―まとめ
2015-07-18


 これまで「三韓」について、資料にどのように現れるか、その用例を列挙しました。 最後にこれを整理してまとめたいと思います。

@ 「三韓」の初見は5世紀の范曄の『後漢書』である。  3世紀に陳寿が編纂した『三国志』には「三韓」という文言はない。 5世紀の范曄は3世紀の『三国志』の文章に「三韓」を追加したものと考えられる。

A 3世紀以前に実在した馬韓・弁韓・弁韓(弁辰)の時代に、「三韓」という呼び方は存在しない。 @のように5世紀の范曄の『後漢書』が、1〜3世紀の後漢の歴史を記述する際にこれらをまとめて「三韓」としたのである。

B 『後漢書』系統史料は、「三韓」を「‘三つ’の‘韓’」というように二語の合成語として馬韓・弁韓・辰韓の三つを指し示すものとする。 馬韓は百済、弁韓・辰韓は新羅に相当するので、「三韓」の範囲は朝鮮半島南部の百済・新羅の領域に相当し、半島北部にあった高句麗は除外される。

C しかし7世紀以降になると、「三韓」が高句麗・百済・新羅を合わせた朝鮮全体の範囲を示す史料が大半となる。 Bでは除外されていた高句麗が入りこんだのである。 10世紀〜14世紀の高麗、および14世紀〜19世紀の朝鮮の公式記録でも、自らの国土領域全体を「三韓」と表現している。

D 「三韓」は史料上Cのような高句麗を含む朝鮮全体説が大部分を占める。 またこの説は中国でも日本でもさらには沖縄までも同様に大部分を占める。 C説は東アジア全体に行き渡っており、B説は非常に少なく、例外的と言える。

E 以上をまとめると、史料的にみると「三韓」が朝鮮全体を指すC説は7世紀後半から現代に至るまで、朝鮮はもちろんのこと中国・日本・沖縄、すなわち東アジア全体の認識として定着していた。 ただし、例外的に『後漢書』系統の資料(B説)では朝鮮半島南部だけを指した。 これにより「三韓」は、高句麗の範囲を含む朝鮮全体とする圧倒的多数説と、高句麗を除外した朝鮮半島南部とする少数説との二つの違った意味が平行してきた。

F 二つの意味を持ったために、大韓帝国成立時には10世紀の高麗統一を3世紀以前の「三韓」の統一と表現され、現在の韓国の古代史概説でも7世紀の新羅統一を3世紀以前の「三韓」の統一と記される例が出てくる。 つまり3世紀以前の朝鮮半島南部だけにあった馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」と、それから数百年後に統一された朝鮮全体(=新羅・高麗)とが時代の違いを越えて同一とされたのである。 なお当事者はこれを矛盾とは捉えていないようである。

G 結局「三韓」は百済・高句麗・新羅・高麗・朝鮮等の各王朝を越えた名称で、朝鮮民族にとっては「我が国土」という意味で使われてきたし、東アジアでは朝鮮民族が居住する「朝鮮半島」という意味で使われてきた。 従って朝鮮人自身が「三韓」を確実に使い始めた7世紀後半が、それまで対立し戦争し合ってきた百済・高句麗・新羅が同一民族意識を持ち始めた重要な時期と言えるのではないだろうか。

H つまり朝鮮民族(韓民族)が民族として一体感を持ったことの表現が、「三韓」という言葉であったと思われるのである。 考えてみれば朝鮮史古代では、半島北部の高句麗はツングース系の遊牧民であり、半島南部の百済・新羅は農耕民だ。 この三国は元々のアイデンティティが違っていたのであるが、互いに‘あなたも私も同じ民族’と一体感を持つに至ったのは、7世紀後半から使われ始めた「三韓」という言葉にその鍵があると言える。

I 現在の韓国の古代史学では少数説であるBを採用して馬韓・弁韓・辰韓を「三韓」とし、その後の高句麗・百済・新羅の三国と区別して「三韓時代」という時代を設定している。 韓国の古代歴史区分は、三韓時代→ 三国時代→ 統一新羅時代となる。 韓国古代史は、東アジアで定着し近年に至るまで連綿と続いてきた圧倒的多数説であるCを無視し、「三韓」が朝鮮民族(韓民族)のアイデンティティそのものであったことを否定するとになるので、いかがなものかと考える。


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