「三韓」の用例(3)―日本古代
2015-06-18


 「三韓」という用語は『日本書紀』に次の十四例があります。 なお『古事記』や『風土記』にはありません。 『万葉集』は十分に確認していませんが、おそらくないでしょう。

(1)神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年十月)          「高麗・百済、二つの国の王、新羅の、図籍を収めて日本国に降りぬと聞きて‥‥故、因りて、内官家屯倉を定む。是所謂三韓なり。」(日本古典文学大系『日本書紀上』岩波書店 338〜341頁)

(2)応神天皇即位前紀          「初めに天皇在孕れてたまひて、天神地祇、三韓を授けたまへり。」(『日本書紀上』 362〜363頁)

(3)応神天皇九月四月条         「独筑紫を裂きて、三韓を招きて己れ朝はしめて、遂に天下を有たむ」(『日本書紀上』 366〜367頁)

(4)雄略天皇九年五月条         「逆節を掩ひ討ちて、四海を折衝く。然して則ち身万里に労きて、命三韓に墜ぬ。哀矜を致して、視葬者を充てむ。」(『日本書紀上』 484〜485頁)

(5)顕宗天皇三年是歳条         「西に、三韓に王たらむとして、官府を整へ修めて、自ら神聖と称る。」(『日本書紀上』 525頁)

(6)宣化天皇二年十月条         「是の時に、磐、筑紫に留まりて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。」(『日本書紀下』 59頁)

(7)欽明天皇十三年十月条        「且夫れ遠くは天竺より、爰に三韓に〓るまでに、教に依ひ奉け持ちて、尊ぶ敬はずといふことなし。」(『日本書紀上』 101頁)

(8)敏達天皇六年五月条         「大別王と小黒吉士とを遣して、百済国に宰とす。王人、命を奉りて、三韓の使と為り、自ら称ひて宰とといふ。」(『日本書紀下』 140〜141頁)

(9)舒明天皇二年是歳条         「改めて難波の大郡及び三韓の館の修理る。」(『日本書紀下』 228〜229頁)

(10)皇極天皇四年六月条         「中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂りて曰く、『三韓の調を進らむ日に、必ず将に卿をして其の表を読み唱げしめむ』((『日本書紀下』 261頁)

(11)同条             「倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読み唱ぐ。」(『日本書紀下』 262〜263頁)

(12)孝徳天皇大化四年二月条         「壬子の朔に、三韓(三韓とは、高麗・百済・新羅を謂ふ)に、学問層を遣す。」(『日本書紀下』 306〜307頁)

(13)天智天皇元年十二月条         「避城は‥‥華実の毛は、三韓の上腴なり。」((『日本書紀下』 356〜357頁)

(14)天武天皇十年八月条         「丙子に、三韓の諸人に詔して曰く、」(『日本書紀下』 448〜449頁)

 それでは「三韓」とは何を指すのかについて、(1)と(12)では高句麗・百済・新羅の三国としています。 なお(12)は割注ですので原資料にはないもので、『日本書紀』編纂者の追加と言っていいでしょう。 また(1)も三国の国名を記した後に「是所謂三韓なり」とありますから、これも編纂者による追加でしょう。 8世紀初めの『書紀』編纂時には、三韓とは即ち高句麗・百済・新羅の三国であるという認識であったと思われます。 この認識がどこまで遡るものかについては、残念ながら不明と言わざるを得ません。

  (1)・(12)以外の「三韓」はこの三国のことか言えば、疑問が残ります。 それは(10)・(11)です。この(10)・(11)は大化の改新で、中大兄皇子らが三韓の調の進上の儀式の際に蘇我入鹿を暗殺するところに出てくるクライマックス場面です。 ここでは三韓からの使者が天皇に「三韓の調を進る」あるいは三韓の王様からの「三韓の表文を読む」という儀式が書かれています。

 この「三韓」が高句麗・百済・新羅の三国としたら、この三国が互いに相談して代表者を選び日本の天皇に「調」と「表文」を奉ったことになります。 あるいは三国がそれぞれ使者を送り、この三人が一緒になって天皇に奉ったことになります。 いずれにしろ、これはあり得るのだろうかという疑問です。


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