長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2)
2026-03-21


[URL] の続きです。

―「刻む会」を設立した当時、目標は何だったのか。

「最初に、海の墓地と呼ばれるあの『ピヤ(排気孔 Pier)』を保存すること。 二番目は日本人としての反省の意と犠牲者全員の名前が書かれた追悼碑を建てること。 三番目は歴史を十分に発掘し、証言資料を収集して本を出版することでした。 ところで犠牲者たちの名前を刻もうとすると、創氏改名された名前しか把握できませんでした。 大変無礼なことでした。 結局、韓国で使われていた住所に手紙を送りました。 17通の返事が来て、その手紙を通して初めて日本で父が亡くなったという事実を知ったという方もおられましたよ。 1992年から遺族会ができて、追悼集会を毎年開くことができました。」

―事故現場の近所に追悼碑と追悼広場をつくるのに22年かかった。

「土地を確保するのに大変な困難がありました。 やっと探したのが2009年でした。 二階建て住宅が売りに出されました。 これを壊して2013年、今のような形につくったのです。 私たち関係者が100万円ずつ出したりして、1600万円を集めました。」

―遺骨の発掘が元々の目標ではなかったと知った。

「韓国の遺族たちが1993年から日本でチェサ(法事のこと)をするようになりました。 この時、遺族たちが県庁に、政府に対する要求書を提出しました。 一番重要な項目が水没したまま放置された遺骨を故郷の地に奉還しろ”ということでした。 私たちも討論しました。 遺骨を収容(発掘)しようと言ったのは私だけでした。 27人だけの小さな市民団体がこれをやるのは無理だし、目標に掲げたら遺族たちを失望させることになるという意見が強かったです。」

―追悼碑を建てた後、活動が終わるところだったと聞いた。

「私たちとしては、もうすべてやったという気持ちでした。 ところがその後、集会(追悼式)の時に、遺族の方々から日本人はこれで運動を止めようというのか、我々は遺骨を収容して故郷に持って帰る時まで闘う”と言っていることを聞きました。 非常に大きな衝撃でした。 追悼式を建てて感謝の言葉を聞くと思っていたからです。 10年以上かけた仕事が大変でなかったというのか‥‥。 その時、山口先生がこのようにおっしゃいました。 『みなさん、これが自分の両親ならばどうしますか? 時間もかかり、お金もかかりますが、この事業を完遂してこそ、この仕事が終わるのではないですか』」

 顔を見たこともない赤の他人でしかも民族も違う朝鮮人犠牲者を「自分の両親」のように思うべきだという考え方は、一般の人にはちょっと理解が難しいでしょう。 しかし差別問題に取り組む活動をしている人には、こういう考え方が受け入れられます。 自分は差別者であると規定して、被差別者に寄り添う人間であろうとすればするほどこの傾向が強くなりますね。

 日韓の歴史問題でも私たちは韓国に加害責任を負わねばならない”踏んだ側は忘れるが、踏まれた側は忘れない”われわれ日本人はただ日本人というだけで韓国に対して原罪を有している”といって韓国側に寄り添おうとする日本人が存在し、韓国から良心的”と高い評価を受けています。 そして“自分は他の日本人と違って韓国人の痛みが分かる良心を持っているのだ”という意識になっていきます。

 こういう日本人が朝鮮人犠牲者を自分の両親のごとく考えよ!”と言われると、それを受け入れるようになります。 「刻む会」もそういう人たちの集まりのように思われます。 ただ両親のごとく考える”というのは無限の責任を負う”という意味になりますから、「この事業を完遂してこそ、この仕事が終わる」というのは最後の最後まで責任を持つということでしょう。 私なんかは感心すると同時に、そこまで言って大丈夫なのかな?と思います。

―遺骨を発掘するようになって、大いに注目された。


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