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L 金時鐘さんの父親は西北青年団と親しかった
4・3事件の前後、反共右翼団体の「西北青年団」はかなりの横暴を働いたようで、評判が極めて悪いですねえ。 金時鐘さんは次のように記します。
済州島4・3事件の前章に位する極右団体、「西青」(西北青年団)の横暴きわまりないアカ狩り”テロ‥‥ (北朝鮮からの)越南者のほとんどが反共主義の権化となって警察や右翼団体の先頭に立ち、済州島にも支部を作って島民への迫害をほしいままにしました。 (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 126・27頁)
(米軍政は)専ら共産党とその同調者を「策出」する治安維持の総責任者に、極め付きの趙炳玉を当てたのです。‥‥ その一方で「民間突撃隊」と恐れられた大韓民族青年団(族青)、西北青年団(西青)、大同青年会(大青)を育成、後押しをして左翼の集会になぐりこみをかけ、ピケラインを襲ってスト破りをし、白色テロを日常茶飯事のようにはびこらせました。 (同上 136・137頁)
反共が身上の極右団体が大々的に台頭したのも、半年ほど前の夏ごろ(1946年)からです。‥‥(11月には)北朝鮮を追われた人たちが若者らによる「西北青年団」を結成しました。‥‥ 金日成社会主義体制への怨嗟を梃子に趙過激な反共の突撃隊をもって任じた社会団体が西北青年団です。 支部結成時はまだ小さな団体でしたが、日を追って続々と本土から移入してきて傍若無人な振る舞いを常套化していきました。 ゆすりたかりから難癖をつけての暴力沙汰は日常茶飯事の出来事で、職務規定など持ち合わせない彼らは、警官すらできないことを平気でやってのけました。 (同上 158・159頁)
済州島を「アカの島」と決めてかかっているべロス軍政長官と、極右の性向をむしろひけらかしてやまない柳海辰知事とが相俟って、西北青年団、大韓青年団等の右翼勢力がより強化され、白色テロが白昼堂々横行するまでになりました。 言いがかりを付けられたが最後、誰もが「赤(パルゲンイ)」にされて半死半生の目に遭いました。 とりわけ西青(西北青年団)の横暴ぶりは目に余るものがありました。 (同上 180〜181頁)
ところが金時鐘さんの父親は、この暴虐な西北青年団と親しくしていました。
父は西北青年団済州島支部のみぎり、顧問就任を要請されていながら体調を理由に辞退したことがありました。 邑内には当時北朝鮮出身者は父ひとりだったようで、私と同年輩ぐらいの西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってきていました。 (同上 173〜174頁)
ぼくの家が北出身だからか、西北会の若い青年たちがその日暮らしが出来なくて、よく家に来てたんですよ。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 平凡社 79頁)
父親は西北青年団とかなりの親交があったようで、「顧問就任を要請され」たり、「西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってくる」ほどでした。 息子が共産主義者(南労党員)でありながら、一方では反共極右の青年たちと親しくしていたというのですから、心穏やかでなかっただろうなあと想像します。 そして父親は、息子のためにその西北青年団に頼みごとをします。
(1947年3月ゼネストに関連して金時鐘さんが逮捕)私も検挙されて2週間に及ぶ留置場体験を生まれて初めて味わいました。‥‥私は通院加療中の患者であるとの証明と、職務に忠実な教員養成所の嘱託であったことが幸いして、特例の形で釈放されました。 正直に申しますと、北朝鮮出身の父のつてで、西北青年団の口利きがあったことも、あとでうしろめたく知りました。 ‥‥ 西北青年団と父の関係をくどくど問いただしてきました (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 170〜171・173頁)
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