[URL] の続きです。
―いっそ帰化を選べばいいのではないですか。
「帰化の敷居は余りにも高い。 うちの次男と嫁も帰化の試験に二回も落ちた。 例えば、帰化試験に1947年にボストンマラソンで優勝した韓国人(徐潤福)が誰かという問題。 我々は孫基禎選手(1936年ベルリンオリンピック マラソン優勝者)を知っていても、正直言って他の選手はよく知らないのではないか。 ほとんどの韓国人も答えられないのだ。 韓国に暮らす在韓華僑たちは、韓国に最も愛情を感じている親韓派だ。 在韓外国人の中で、犯罪率も一番低いと知られている。 私も母が韓国人で、在韓華僑たちは、妻や嫁が韓国人である場合も多い。 活動する時も韓国語をたくさん使う。 こんな人たちには帰化に加算点とは言わなくても、試験なんかもちょっと易しくしてくれればいい。」
ここは日本の帰化試験とは違いますね。 日本では社会で意思疎通ができるかどうかの日本語テストで、小学3年程度の日本語能力を試験します。 日本の高校や大学を卒業していれば、免除されることがあります。
一方、韓国では韓国人としての常識があるかどうかのテストになりますが、ここにあるように韓国人でも普通知らないような事柄が試験に出ます。 韓国の新聞にはこんな帰化試験問題を紹介して、「これが韓国人の資格なのか?」と揶揄する記事がありましたね。 [URL]
―現在、漢城華僑協会の会員数はどれくらいですか。
「全国的には1万9千人、ソウルには約9千人前後だった。 だんだん減っていく趨勢であるが、最近は6千人まで落ちた。 過去に朴正熙政府の時に推進した政策が原因で、多くの在韓華僑たちが海外に移住したのが、第一次人口流失だった。 華僑三〜四世代たちになって、台湾国籍を敢えて不便でも持っていなければならない理由がなくなってきている。 実は我々の世代ぐらいでは「私は中国人」という概念を持っているのだが、華僑三~四世代たちはそんな概念が弱くなっている。 年取った方たちも、海外旅行に行くのに不便だという理由で多くが帰化を選んでいる。 うちの妻の親戚たちは八親等もみんな帰化した。 過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあったが、このごろはむしろ羨ましがる雰囲気だ。」
在韓華僑が大きく減る原因となった「朴正熙政府の時に推進した政策」は、是非知ってほしいものです。 朴正煕大統領は1961〜1979年の18年間、韓国を統治しました。 その時に華僑を抑圧する政策を施行したのです。 具体的にいうと、土地所有・営業店舗・株式保有の制限、農地所有・貿易商・定期刊行物発行・金融機関設立の禁止などです。 すなわち会社経営や不動産取得を厳しく制限して、例えば中華料理店は個人経営の小店舗だけに限るようにしたのです。 また華僑たちが集まって組織化されることも阻止しました。 このために華僑たちの多くが国外に脱出し、日本や台湾、アメリカなどに移住しました。 仁川にあった中華街はこの時に廃れたそうです。 在韓華僑は1970年に3万2千人、1980年に2万7千人、1990年に1万9千人と減りました。
この時期の日本では在日韓国・朝鮮人への民族差別に反対する運動が盛んでしたが、“本国の華僑差別は問題にしないのか“という批判がありましたねえ。 当時の運動団体の主張では“自分たちは日本の政府や社会を相手とするものだ”ということで、本国での華僑差別には全くの無関心でした。 彼らの人権感覚は日本国内の自分たちの問題に限られていて、本国には考えが及ばなかったのです。
「過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあった」というのは、初めて知りました。 在韓華僑社会では帰化を否定していたのですねえ。 これは在日韓国人が帰化を民族の裏切りと指弾して否定していたことを想起させるものです。 どちらも過去の話でしょうが、共通点があることに驚きました。
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