ホーチミンと丁若縺\韓国で広がったトンデモ話(3)
2024-09-26


[URL] の続きです。

朴憲永が『牧民心書』を贈ったって?

2009年に出版された『朴憲永評伝』(実践文学社)は、その根拠を次のように示している。 「1929年、朴憲永が入学したモスクワ国際レーニン学校にはホーチミンもいた。 朴憲永は彼に『牧民心書』を贈った。 この本は将来ベトナムの指導者になるホーチミンに、生涯の指針になった。」(『評伝』106p) 著者のアン・ジェソンは「朴憲永が贈った『牧民心書』は、ハノイにあるホーチミン博物館に保管されていて、朴憲永は親しき友″という意味の『朋友』と署名して贈った」と付け加えた。 本当なのか?

ベトナムの国父ホーチミン、フランスに立ち向かって独立を勝ち取ったこの独立闘士が『牧民心書』を耽読して丁若繧尊敬したという話は、1990年代に一部知識人の間で根拠のない主張として現れた。 

1929年、ホーチミンはジャングルにいた。 1919年にフランスのパリで活動していたホーチミンは1923年モスクワに行って東方被圧迫民族共産大学に通って活動した後、中国を経て1928年からタイのバンコクで本格的な反帝国主義闘争をした。(チョン・ヨンジュン『ヒョンエリスと彼の時代』2015年、18p) 出会い自体が不可能であったのだから、先の『朴憲永評伝』の主張は参考にする価値もない。

 朴憲泳は植民地時代〜朝鮮戦争時に活躍した有名な朝鮮人共産主義者です。 検索すれば、詳しい経歴が出てきます。 この朴憲泳が1929年に共産主義を学びにソ連のモスクワへ留学した際、ホーチミンに会って丁若縺w牧民心書』を贈ったという話です。 しかしホーチミンはその1929年にはインドシナのジャングルで反帝闘争をしており、モスクワにいませんでした。 つまり朴憲泳とホーチミンはモスクワの大学に同時に一緒にいたことがなく、ですから朴がホーに『牧民心書』を贈ったなんてことはあり得ません。

 それぞれの経歴を調べたら二人が出会ったことはあり得ないのがすぐさま明らかになります。 しかし朴憲泳の伝記には、このあり得ないはずのトンデモ話が書かれていたというのですから、ビックリですね。

死後100年経って出てきた『牧民心書』

1818年、流刑から解放された丁若繧ヘ、市中に『牧民心書』の筆写本が出回っている事実を知り、「一字一句も、再び人の目にふれてはダメだ」と言って恐れた。(丁若縺u李在誼に送った手紙」) 1902年、張志淵(『是日也放聲大哭』の著者)が最初に『牧民心書』を出版した。 それ以前は、地方官庁で各自が作った筆写本以外にはなかった。 1936年、丁若繧フ逝去100周年に臨んで 朝鮮の知識人たちが『與猶堂全書』の出版を決めた。彼らは1934~38年に丁若繧フ後孫が災害から救い出した文書類をもとに『與猶堂全書』を発行した。

あれこれの理由で、生前には一冊も出版したことのない本だった。 二回とも丁若繧ェくずし文字で書いたものを活字にした漢文の本である。『牧民心書』は分量がまた48巻16冊と膨大である。 いくら漢字圏の知識人だといっても、ホーチミンがジャングルで持ち歩いて愛読するということはあり得ない。 朴憲永に会う方法もなかった。 ホーチミンは丁若繧フ存在自体を知る方法がなかったのである。

 韓国では、「実学」は空理空論の朱子学を批判して近代への萌芽となる学問・思想だったという評価がなされていて、その「実学」を集大成したと言われるのが丁若繧ナす。 しかし李朝時代には彼の本は出版されることなく手で筆写されて読まれてきたのでした。 丁若緕後65年経った1902年になってようやく著書の『牧民心書』が出版されたようですが、さほど関心を持たれるものではありませんでした。 そもそも朝鮮にも近代に繋がる思想があったとして「実学」が注目されるようになったのは、植民地時代でも1930年代のことです。 1929年に朴憲泳が丁若縺w牧民心書』を贈ったなんて、あり得ないことです。

訂正されない虚偽の主張


続きを読む


コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット