壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2)
2024-07-05


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職業選択権がなかった陶工たち (4:18)

それでは、この陶工たちはどのようになったでしょうか? 磁器製作は技術を学ぶのに時間が多くかかります。 また安定的な磁器供給のためには、官窯に適正人員が常に必要だったでしょう。 だから官窯で陶器を作る陶工たち、沙器匠は世襲職になります。 1542年に編纂された法令集があります。 『大典後続録』という法令集ですが、これを見ると沙器匠はその業を代々に世襲すると規定されています。 また先ほど申し上げた『経国大典』には、王室磁器管理機関である司甕院、「司甕院」といいます、この司甕院所属の沙器匠の人員を380人に規定しました。 定員が380人で、これを維持しろという意味ですね。 最初は全国の沙器匠1140人を3年単位で選び出して交代させました。 

ところでこれは粛宗の時に、最初から官窯の周辺に村を作って暮らす専属職人たちで官窯を運営しました。 どういうことかと言いますと、職業選択の自由、居住地移転の自由が剥奪された世襲職人だったという意味です。 この人たちは窯を焼く木を探して 京畿道広州のなかを移動し続けて窯を築き、陶器を作りました。 320基を越えました。 今発掘調査されたものだけです。 この広州内の窯周辺には、沙器匠たちとその家族で大きな村を成しました。

 文禄・慶長の役以前の15世紀の朝鮮では、陶磁器の公的生産機関として官窯が整えられました。 なお後述しますが、慶長の役の際、日本軍はこの官窯がある広州には至っていません。 ということは広州官窯の陶工は、日本に連行されなかったのでした。

飢え死にした陶工たち (5:47)

ところが1697年のある春の日、その広州で陶工39人が一度に飢え死んだのです。 どうしてそうなったのでしょうか? 陶工はその職業が賤しい工人です。 身分は賤民であったり、平民であっても賤民扱いを受ける「身良役賤」の人たちが大部分でした。 彼らは陶器を焼くという業務以外には、何の仕事もしてはならないのでした。 1697年、広州の官窯から中央政府に送った報告書には、このように書かれています。 「彼らは農業や商業で生計を立てる道がなく、昨年は私的に陶器を焼くこともできず、みんな飢えるようになりました。」 一人二人でもなく、40人にもなる専門職業人が一度に飢え死んだのです。 飢え死にした者は39人であり、力尽きて動けない者が63人です。 家族がちりぢりになった家が24戸出ました。 残った人たちも、陶器を作れない境遇だったといいます。

 李朝時代、朝鮮では陶工は身分が「賤民」であったことは覚えておかねばならないことです。 「〓〓〓〓(朝鮮八賤)」に「〓〓(工匠)」があって、これに当たるのではないかと思います。 汗水流して働く肉体労働者は、奴婢なんかと同じ賤民階級だったのです。

官窯から逃亡した者はむち打ち百回、そして懲役3年の刑に処罰されるという、そんな規定もあります。 それくらいに辛かったために逃亡した人がいて、そのために逃亡した人を処罰する規定まであったくらいに辛かったという話です。 朝鮮政府は守ることのできない法で、耐えることのできない義務を、国家の需要のために強制していたのです。


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