在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞
2022-01-31


 2022年1月発行の在日雑誌『抗路9号』の巻頭辞に、次のような文言があります。

昨年の衆議院選挙も、またもや与党・自公連立政権の大勝に終わった。加えて、右翼ファシズム政党「日本維新の会」が41へと大幅に議席を増やし、公明党を抜いて第3党の地位を占めるに至った。投票率の低さと小選挙区制が僭主政治を可能ならしめ、「民主主義」が独裁を支え、人権と平和の理念も原則も限りなく脆弱化してゆくこの日本という国に住む私たちは、如何なる肯定的生を謳歌できると言うのだろうか?

辺野古新基地建設問題や福島原発事故は言わずもがな、所謂「モリ・カケ・サクラ」疑惑も「赤木ファイル」事件も、何一つ解決されないどころか大多数の無関心と忘却に晒され続けて、司法反動化の与件に成り下がるのを待つ他ないとすれば、あまりにも悲惨だ。

この歴史的大劣化とコロナ禍の中にあって、この国の主権者たりえず、選挙権が剥奪されたままの「在日」には、生ける屍ならぬ「生ける人権蹂躙」という形容が付されるべき

 この巻頭辞は「本誌編集委員会」名で発表されていますから個人的見解ではなく、雑誌関係者全員の意思です。 読めば分かりますように、日本の状況分析は左翼勢力の考え方そのものですね。 右傾化した日本社会の下で、自分たち在日は一方的に被害を受けているのだという主張になります。

 私が以前より言っていますように、在日は1970年代までは被差別体験など共通性がありましたが、それ以降、差別されたことがないという若い在日が増え始め、多様化していきました。 今や在日といっても日本人同様に多種多彩で、一括りには出来るものではありません。 日本の政治に関心が強い者もいれば全く無関心な者もおり、関心があるとしても「右」もいれば「左」もいます。 『抗路』はその中で、日本の左翼思想を自ら選び、その思想に基づいて在日のあり方を求めるという姿勢を示したことになるでしょう。

 ですから雑誌『抗路』は、「在日総合誌」を謳いながらも在日を総合的に論じるのではなく、一部の在日の意見を集めて打ち出したものだということです。 別に言えば、左翼傾向の在日たちの機関誌的役割を果たそうとするものと評価できます。 

 以上のような『抗路』の方針は、私の考えとは大きな違いがあります。 しかしこれは個々人の思想信条の自由の範囲内として、私には容認できるものです。 私は、ふーん、この人たちはそう考えているのか、と思うだけです。

 しかし上述の巻頭辞の中で、これはちょっと如何なものかと思われる部分がありますので、それを指摘したいと思います。

この国の主権者たりえず、選挙権が剥奪されたままの「在日」

 歴史的事実として、1945年の日本敗戦時に、朝鮮人たちはもうこれで日本人ではなくなったのだと「解放」を喜び、「万歳」を叫びました。 本国の朝鮮人たちはもちろんのこと、在日朝鮮人たちも日本の主権者でなくなったのですから、日本への参政権が喪失したのは当然のことです。

 つまりそれは自らの意思であって、「剥奪」では決してありません。 それから75年以上が経った今、なぜ「剥奪」という言葉が出てくるのか? それは、自分たち在日は被害者だとアピールするために歴史を捻じ曲げた表現であると、私には思われます。

投票率の低さ

 『抗路』は日本の選挙の「投票率の低さ」のこと言っていますが、他国の選挙のことを云々する前に、自分たち在日の本国選挙権を語る必要があると思います。

 韓国の大統領選挙等については、韓国国籍の在日も2012年より選挙権を有することになりました。 しかし在日でこの選挙に投票したのはごくわずかです。 5%もいかなかったのではないかと記憶しています。 その後の選挙も投票率は低いままです。 自分たち在日の本国選挙での投票率の低さを棚に上げて、他国の投票率の低さをとやかく言うのは、いかがなものでしょうか。

 以上の二点は、個々人の思想信条の違いで済まされるところではないと考えますので、敢えて記しておきます。


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