砧を頂いた在日女性の思い出(2)
2020-10-07


[URL] の続きです。

 砧をもらった在日一世のおばあさんの話をもう少しします。 1995年の阪神大震災の3ヶ月ほど前に知り合いの在日から、“広い家に一人住まいしている私のおばあさんがいる、もうかなりの年齢で心配だから大阪の私の家に引き取ることになった、その引っ越しを手伝ってほしい”と言われて行きました。

 荷物は既にかなり片付いていて、古いミシンなどは古道具屋に売ってしまったとのことでした。 残った荷物を車に載せていると、砧の道具がありました。 コンクリート製の台と二本の砧棒です。 古道具屋はこれの価値を知らなかったらしく、持っていかなかったということでした。 そこで私が頂いたものです。 当時は「洗濯の叩き石と叩き棒」と言っていましたねえ。

 それから「砧」に関して資料を集めていたところ、例の阪神大震災が起きました。 地元の郷土研究誌はしばらく休刊となっていましたが、やがて復刊したという話を聞いて、この砧に関する論考をこの郷土誌『歴史と神戸』に発表したという次第です。 その後も「砧」について更に資料を集めて、幾つか論考を発表しています。 拙HP・ブログにも上げましたので、参考いただければ幸い。(下記参照)

 ところで先の知り合いの方から、このおばあさんの話を幾つか聞きました。 印象に残っているものを思い出すままに書きます。

おばあさんは洗濯が好きでねえ、一日に二回は洗濯物を打っていたんよ。 嫁に来た時からあったらしく、私の小さい時からずうっと打っていた。 これで打つと、洗濯物に艶が出るんよ。

私が大学に入って、同じ在日の子と友達になって、家に連れてきたことがある。 そうしたら、おばあさんが家の奥に入ったまま出て来ない。 友達が来たんだから挨拶ぐらいしてよ、同じ朝鮮人なんだから、と言うと、ああそうか、だったら安心だ、と言うんよ。 おばあさんは見るからに朝鮮人だし、言葉も朝鮮訛り。 自分が出ていくと、この家が朝鮮の家だと思われるのではないかと心配して、遠慮していたんよ。 

そういえば高校の時も友達を連れて来たら、おばあさん、決して出て来ようとしなかったことを思い出した。 朝鮮人と分かったら孫がいじめられると思って、遠慮していたことがその時に初めて分かったんよ。

 子供が友達を家に連れてきても、おばあさんは顔を出そうとしなかった、その理由が朝鮮人であることがバレるからとは、ちょっと胸が締め付けられますね。

 ところで、このおばあさんの家、元々は神戸港の沖仲士の寄宿舎(いわゆるタコ部屋)でした。 自宅兼寄宿舎ですから、家は部屋数が多く、広々としていました。 寄宿舎はおじいさんが経営していて、おばあさんは飯炊き等の仕事をしていたといいます。

 そしてこの家の一角に「在日本大韓民国民団○○支部○○分会」という看板のかかった部屋がありました。 ですから、かつては多くの人がこの家を出入りして、非常ににぎやかだったそうです。 この看板、その時に貰っていたらよかったのに、或いはせめて写真でも撮っていたらよかったのにと反省するところです。 支部名・分会名がもう分かりません。 大震災で家もろとも焼けてしまいました。

 民団の分会ですから、どこかに資料が残っているだろうし、ここに出入りした在日韓国人はまだご存命かも知れませんねえ。 この分会の部屋には「権逸」(1960年代に民団団長、そのあと韓国国会議員)の名前の入った感謝状みたいなものが額に飾ってあったそうですが、これは後で聞いた話です。 これなんかも貴重な資料なのですが、もらい損ねました。

 ところで「沖仲士」なんて1960年代に消滅しましたから、今は知っている人はほとんど年寄りでしょう。 もう間もなく読み方も含めて歴史用語になるでしょうね。


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