日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(4)
2020-02-05


[URL]   の続きです。

 今回は第16章の後半です。

16、亡国の暗君が開明君主に化ける(後半)   金容三

ロシア皇帝に「朝鮮保護」を要請

高宗は1896年2月11日の明け方、皇太子と一緒に宮女の服装に変装して宮城から脱出し、ソウルのロシア公使館に身を隠しました。この行動は駐朝鮮ロシア公使が計画し、ロシア軍人の支援と護衛を受けて断行されたものです。ロシア公使館に到着した高宗は、まず最初に日本と親しくしていた親日官吏たちを処断せよという命令を下しました。王命受けた親衛部隊出動し、総理大臣の金弘集を殺害して遺体を清渓川に投げ捨て、農工商部大臣の鄭秉夏、度支部大臣の魚允中は群衆の暴力で亡くなりました。10人余りの他の大臣たちは、千辛万苦の末に日本に脱出して亡命しました。

俄館播遷の期間中である1896年5月末、高宗はロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に閔泳煥を朝鮮代表として派遣しました。閔泳煥はベーベル公使の周旋でロシアの要員たちの保護を受けながらモスクワに行ってニコライ二世に謁見しました。この席で閔泳煥は「朝鮮をロシアの保護領にしてほしい」と求めました。そうして外務大臣ロバノフ、財務大臣ウィッテと面談してロシア軍隊の朝鮮国王保護、ロシア軍事顧問官派遣などを要請しました。

二ヶ月後の7月29日、ロシアは軍事教官団を朝鮮に派遣しました。ロシア教官団は朝鮮の宮城護衛隊を訓練し、この警備隊は1897年5月、元の宮城に戻った高宗が見守る前で、ロシア式の査閲をしました。

朝鮮末期の朝鮮軍隊は、日本の教官を招聘して別技軍して日本式に訓練を受けましたが、壬午軍乱が起きると清の軍隊編成に変わり、清の教官たちの調練を受けました。またアメリカの退役将軍を招聘してアメリカ式に訓練をしましたが、また日本軍の訓練を受けて訓練隊を養成しました。この訓練隊が閔妃殺害に動員されて、信じられないことになるやロシア教官を招聘してロシア式訓練を始めたのです。このころ、朝鮮が一瀉千里に親露政策を推進する姿を見守っていた駐朝鮮アメリカ公使のアレンは「朝鮮問題はすべて終わった」と虚脱状態で語っています。ロシアの軍事教官団は、宮城護衛隊を訓練するのに続き、ロシア軍の指揮下に6,000人の朝露連合軍の結成を試みました。

しかしロシアの朝鮮進出政策は、満州浸透を主張する勢力が優勢になって、満州進出に旋回するようになりました。1897年12月18日、ロシアは日本が返還した遼東半島要衝である旅順と大連港を租借して極東地域で不凍港の確保に成功することによって、朝鮮に対する戦略的関心がなくなっていき、この渦中に朝露連合軍計画は廃棄されました。朝鮮に対する関心が冷めたロシアは、1900年7月、日本に朝鮮半島を分割して「朝鮮で、ロシア・日本の勢力範囲を確定しようと提案しました。もしも日本がこの提案を受け入れたならば、韓国は1945年ではなく1900年に南北に分断されて、ロシアと日本の保護領となった可能性が濃厚です。

一部の学者たち、高宗を開明君主と美化

日清戦争を終わらせるために、下関講和条約が締結された1895年から日露戦争が開戦した1904年の10月は、朝鮮の立場から見れば国家改革を通して近代国家に成長できる最後の機会でした。朝鮮の国家指導部は、その機会を無為に過ごし、中国、日本、アメリカ、ロシアなどの外勢を引き入れて国家独立を守ろうと七転八倒しました。韓国近代史で「失われた10年」と呼べるこの時期を、国家指導部が有益に使ったならば、朝鮮の未来は肯定的に変わることが出来ただろうし、極東と世界の歴史も相当に変わったかも知れません。


続きを読む


コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット