福田徳三について(2)

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黒木直 ― 2019-06-16 21:06
私も、朝鮮・中国に封建時代は無かったと考えるものです。若いころに唯物史観・弁証法を勉強しました。生噛りの人たちは機械的にかつ教条的に考えがちです。アジアの国々で封建時代を経ているのは日本だけだと考えます。欧米と違って、日本は庶民にまで読み書きそろばんの簡易的な教育の機会が有り、(貧しさゆえに阻害された地方などの農民、貧民が居ましたが、二ノ宮金次郎の様に優秀な人材は登用されることもありました)識字率の高さ、瓦版・巷間の数学熱などは、日本の独特な所です。中国では封建制社会があったと考える人もおり、韓国では、李氏朝鮮時代が封建制社会で、両班が武士階級だと言う人がいます。社会制度の階級・身分は、次の資本主義市民社会に移行すると、日本でそうだったように、結局、跡形もなく退場していきます。韓国では、全ての人が両班の子孫に成りたがる傾向があり、族譜(中国の影響)を大切にします。それには被差別民の男子血縁共同体がもたらした劣等感が根底にあるのでしょう。そこで、アジアにおける社会発展・歴史研究者に封建制時代を経ることの重要性が充分位置付けられていないように思います。それは、唯物弁証法的考察による市民社会意識の発達に関する理解が確立されていないことから来るのでしょう。市民社会の意識の発達にはある程度の時間が必要だし、形成過程には、ヨーロッパの啓蒙思想に見られるように、また、日本の自由民権運動の様に熱病の様な時期が必要でしょう。現在の韓国のエキセントリックな市民団体の民族主義的な被害者中心主義、観念的正義・人権至上主義は熱病化している様に思えます。そこに、見られる無軌道さは、中国の全体主義とともに市民社会の意識の未成熟さと関係が有ると思います。それは、個人の意識と集団としての社会意識(規範・法律の軽視やモラルといった公的社会的価値意識)が相互に関係せず、統一されていない。韓国で、個人の劣情的な意識が優先されるのは、国民性ではなく、個人の意識と集団としての社会意識の間に乖離と相互不信が存在するからで、奴隷制社会の無権利状態の遺産ではないでしょうか。個人と社会の乖離は、極度の民族意識と劣情的で無軌道な暴発を、その必然として、表面化する。中国や韓国朝鮮の指導者・学者が個人と社会の相互作用的な意識の発達を考えず(意識は個人だけでなく、社会集団にも存在する)、経済発展だけを見るならば、自己満足と引き換えに、社会の抱える脆弱さ・危うさを見落としてしまいます。封建制社会を単に暗黒視する味方はその存在意義の理解に繋がりません。私は、個人と社会の意識(リテラシー)の発達統一過程として、地縁共同体としての封建制社会の存在意義が重要だと考えます。粗い内容となったことを許して頂きたいと思います。

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