韓国の新聞や本を読んでいると、時々ビックリするような表現が出てきます。 最近読んだ中ではキン・ジョンヒョン著『20世紀の話 1990年代』(2014年9月 タプタ)に、2000年の金大中大統領のノーベル平和賞受賞について、次のような記述がありました。
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直訳すれば次のようになります。
これをめぐって南北首脳会談は金正日にお金を渡した対価として成し遂げられたもので、だからノーベル平和賞もお金を出して得たものだという批判がないことはないが、それでも100年余りの間、韓国を拒否してきたノーベル賞の水口を初めて開けたという点から共に祝って、誇りを持つことのできる慶事の中の慶事であった。
この中でさり気なく挿入されている「100年余りの間、韓国を拒否してきたノーベル賞」という記述にビックリ。 「〓〓(拒否)」という言葉はどの韓国語辞典を調べてみても、やはり日本語と同じ意味でしか使われていません。 そしていくら調べてみても、ノーベル賞の選考において「韓国を拒否してきた」というのは出てきません。
韓国人にノーベル賞が受賞されてこなかったのは、評価されるだけの業績がなかったからとしか言い様がありませんが、韓国では何故かノーベル賞側が「韓国を拒否してきた」という表現になっています。
ひょっとしたら韓国人は、本当は受賞するだけの功績があったにも拘らず韓国だということで受賞できなかったと、心の奥底では思っているのかも知れません。
韓国ではこのような根拠のない被害者意識の表現がごく自然に出てきます。 そしておそらく韓国人たちはこれに何の引っ掛かることなく読んでいるものと思われます。 被害者意識が血肉化してしまっているのではないかと考えているのですが、いかがなものでしょうか。
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