1980年代のことですが、民族差別と闘う活動をしていた在日活動家たちは、自分たちの民族の言葉について、ごく初歩の段階で止まってしまって、更に学ぼうとしなかったことが、ほとんどでした。
その理由付けは、「我々は韓国人でもなく、日本人でもない、在日なんだ。だから朝鮮語を勉強する必要はない。」 というものでした。
日本に同化された在日にとって、朝鮮語は外国語でしかなく、それを勉強するにはかなりの努力が必要です。ましてや身に付けるという段階に達するには、多大な時間とお金、そして持続的な熱意が必要です。
在日の活動家の多くは、その努力をしたくなかった言い訳を考え出したのが1980年代だったなあ、と今になって思い出します。そんな苦しい努力をするよりは、日本社会に対する民族差別反対の闘いははるかに楽なものだったのだろうと思います。
だったらそれ以前はどうだったのか?ということになりますが、1970年代は、北でもなく南でもない、第三の道を歩むのが在日だ、という主張でしたねえ。それは祖国から距離を置くというものでしたが、少なくとも民族の言葉ができないことにコンプレックスを持っていました。
それが80年代になって、言葉ができなくてもいいんだと居直るようになった、という経過でした。
民族の言葉すら学ぼうとせず、日本との関係性のなかだけで自らのアイデンティティを見出そうとする‥‥。民族差別と闘う在日活動家たちはそれを志向していました。その傾向は今も変わらないように思えます・
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