集英社新書『在日一世の記憶』(その6)
2009-01-03


 この本の編者である小熊英二は、「あとがき」のなかで在日の将来について次のように述べる。

「一世たちは、明らかに日本社会における『異物』であったが、現在の三・四世の在日はもはや言語的・文化的に日系日本人と差異はあまりない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更していらい、生まれる子供は日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六・七世は存在しうるのか、存在するとしてもきわめて少数になるのではないかという疑念はでてきても不思議ではない‥‥‥

わたしは『在日』の存在は今後もなくならないと思う。‥‥

日本社会と『在日』の人びとが『在日』というカテゴリーを必要とするかぎり、どれほど文化や国籍の同化が進もうとも、『在日』は残りつづけるだろう。それは差別対象としてであるかもしれないし、日本社会を批判する足場としてかもしれないし、社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結としてかもしれない。そうした必要がある限り、『在日』の存在はなくならず‥‥」(779〜781頁)

 果たして日本社会が在日というだけで彼らを「必要」とすることがあるのだろうか?しかも「必要」というのが、「差別対象」であり「日本社会を批判する足場」としての必要性であるという。こんな必要性を有する日本人は、よほどの偏見に満ちたというか、人間性に問題のある人だ。  日本社会にとって必要な在日とは、日本社会に寄与・貢献してくれる人たちである。そういう存在ならば、在日が「異物」であろうが、「同化」していようが、まったく関係のない話である。

 また在日自身が「社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結」のために「在日」を必要とするとある。  しかし小熊自身が書いているように、在日は日本国籍を取得していくのである。日本国籍を有せば、他の日本人たちと「社会的権利」の差はなくなる。差のないものを「在日」という理由だけで権利を求めることは、それは特権要求でしかない。

 小熊の論理では、「在日」のアイデンティティの源泉は、朝鮮半島や民族文化になく、日本との関係のなかだけにある。しかもそれは被差別・受難・被害という関係である。  小熊は在日を第二の部落問題にしようとしているようだ。


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